レインウォッチャー

マジカル・ガールのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

マジカル・ガール(2014年製作の映画)
3.5
映画の冒頭近く、ある数学教師がこんな授業をしている。「完全な真実とは、2+2=4のように答えが不変なものだ」。
しかし、これが机上を離れた人の運命となるとそうもいかないものだ。人どうしの関わり合いは、必ずしもゼロサムゲーム(利得の総和が0で釣り合う)とは限らない。今作の物語では大まかに3人の人生が絡み合うけれど、最後に《勝者》は残らないのだ。

白血病で余命幾ばくもない娘のため、高額のアニメグッズを手に入れようと奔走する父親。
そんな開幕から始まって、父親の行動は誰も予期しない形で他の人々と結びつく。不安定な精神を抱えながら夫との関係に悩む女性や、彼女とむかし関わったことのある老いた元教師…彼らはちょっとでもタイミングがズレていれば出会うはずがなかったといえるし、出会ったとしても同じく何か1つのピース(生活の状況、過去の人脈、あるいはそのとき立っていた場所など)が足りていなければ、このような顛末に発展することすらなかっただろう。

しかし、結局のところそれは結果論に過ぎない。すべては起こるべくして起こり、避けられない結末に辿り着いたかのように思える。そして、わたしたちの(おそらく大部分の人にとって)平穏な日常もまた、解きほぐせば無数の不可欠な選択がもたらしたピースで出来ていることに気付かされる。
老教師が趣味のジグソーパズルをやっている場面があって、そんなイメージを後押しする。あと1ピースで完成するところ、そのたったひとつが見つけられない。そのひとつのために、彼の人生は「狂った」とも「あるべき形に収まった」ともいえるかもしれない。

今作は情報の出し方と適切なサプライズが巧みなサスペンス(※1)だけれど、更にパズルを遡れば社会情勢に対してもアラートを鳴らす切れ味を持っていることがわかる。
父親のとった行動は金策に困っての選択であり、それは失業によるもの。さらにその失業の原因は、あらゆる価値がデジタルな数値で測られる社会にある、と言いたいようだ。これは、書籍の(内容を問わない)量り売りや、ビジネス化するスポーツ、あるいは人の尊厳さえも商売にできる…といった劇中の話題にも表れており、冒頭に書いた数式、つまりはロジックや理性で説明できることを最良の真理と信じて追及してきた結果としてある現代、という見方と繋がっている。

そのような「ロジックや理性」と対極にあったはずなのが、病気の娘が夢見ていた《魔法》なのではないだろうか。父親は、娘の《魔法》を金という数値(=ロジックや理性の具現化の最たる形というべきもの)に変換しようとしてしまった。その時点でゲームは成立しないことは必然であり、壊れ始めていたのかもしれない。そして、同じことは他の2人にも当てはまる。

劇中のとある要人が、闘牛を例にして「闘牛は感情と理性が両立する営みであり、スペイン人の精神そのもの」だと語っている。わたしは、全体と照らし合わせるとここに作り手の想いを垣間見ることができるように思うのだ。

あるアクションの反復によって、ラストには「何も残らなかった」ことが強調される。
彼ら3人の物語は運命だったのか、不幸の連なりだったのか。1+1+1=3…とはならず、「0」あるいは「マイナス」という不合理となった。不合理を合理へと埋められるはずだった最後の1ピース、《魔法》は、理性だけでは解決することができない。合理=道徳とされ、自己責任が正論のように求められるような社会だからこそ、そのような《魔法》の在り処にこそ注意を払わなければならない。

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あと誰も彼も、色々と「あともう一歩」落ち着いて確認しなはれ、ってことばっかりである。これもまた役に立つ人生の基本。コンロやドアのカギは指差し確認しよう。電車で席を立つときは一回振り返ろう。

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※1:加えて、随所に張り巡らされた「これ笑っていいやつ…?」と不安にさせる類のキワいユーモアが只者でなさを感じさせる。緊張と笑いは紙一重。