記録用
トッド・フィリップ監督作品。
ジョーカー続編前に復習。
当時劇場で見た際の印象は旧スーパーマンやバットマンから間が空きMCUが開幕するのと同時期にダークナイトトリロジーが始まり特にヒース・レジャーの演技が絶賛いるのが印象的。
ライジングがこけスナイダー版も暗く迷走しシャザムで明るくなったと思った年に公開されまた暗そうだが大丈夫か?と思っていた。
そしてヒース・レジャーの後にジョーカーは比較されて大変だろうと。
しかしホアキン・フェニックスが演じると聞き演技もそうだがインタビューなどでも変わった人だったので合ってそうだと期待していた。
タクシードライバーとキングオブコメディなどを合わせた印象であるがスコセッシの作品はもはや古典の域に達して引用、再構築させアメコミ映画原作でしっかりと映画的作品が出来たことに今後の期待も高まっていた。
妄想と現実が入り乱れ最終的にどこが現実でどこまでが妄想かわからなくした点も良かった。
観客は何通りもの受け取り方ができる余白を持たせてくれる仕組みは従来のバットマンシリーズでは許可が降りなかったはずだ。
自分が好きな解釈としてそもそもこの全ての回想が最終的にジョーカーがアサイラムで話すジョークであったということ。
ジョーカーはダークナイトでもあったように出自が毎回出鱈目で統一はされていない。
しかし今回の回想(本編)をジョーカーというキャラをあまり知らない人が見ると社会的弱者がさらに堕ちるという悲劇に感じ可哀想だと感じてしまうようにできている。
本編中にも信者が現れ扇動される。ジョーカーの目的はMCUのように物理的に戦うわけではなく悪の側に転がり込んでしまう精神的に不安定な人間をそちら側に引き込む聖書に出てくる悪魔のような存在で混沌を望んでいる。
ダークナイトで例えるとハービーデントはトゥーフェイスになるよう堕とされバットマンに対してはコウモリの格好して夜な夜な自警団まがいの行動している時点でもうすでこちら側の人間なんだと説得するように付きまとう。
今作の構造そのものがそういう心の弱い人間に付け込みジョーカーのような反社会的行動を移してしまっても良いと扇動するような作り話になっていると考えるとより」ジョーカー」という存在を表せているなと鑑賞していた。
まさかその時は本当に世間で感化されすぎる人がいるとは思わなかった。
なぜなら作品の予防線として扇動されているジョーカー信者をアーサーは若干の嫌悪感すら持っていたから。
商業的にもヒットし賞も獲ったがそれに反してこのような反応があると製作側も寝耳に水だったであろう。
そしてそれが続編を作り上げる原動力になっていくとは。