レインウォッチャー

ヘヴィ・トリップ/俺たち崖っぷち北欧メタル!のレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

4.0
ヘヴィメタルという音楽を聴く度にふと頭をよぎるのは、「何故そこまでして」という疑問である。

速さと重さと大きさのインフレ的追求というフィジカルの負荷、そして少なくとも王道の《モテ》は捨てざるを得ないメンタルの負荷。更に、貴重な同志の間でもちょっとしたことが「メタルかメタルじゃないか」論争の火種になったり…と悩みは尽きない(偏見含む)。

そのような無数の試練を前にしてなお、なぜ彼らはメタルの道を選ぶのか?
答えはきっとシンプルで、「それしかなかったから」に他ならない。そして、だからこそメタルはドラマであり、ドラマはメタルなのであろう。

このアンサーは自ずと、この映画の舞台でもあるフィンランドやノルウェーといったオーロラとフィヨルドとトナカイの国がヘヴィメタル名産国(※1)たる所以にも結びつく。
このへんといえば「とにかく寒いし暗い」わけで、長い冬と夜は外出を阻む。日照時間が鬱病の原因とリンクしている…ともきくけれど、その発散の一助として地下室で黙々と楽器でも練習するしかないというわけだ。

加えて、北欧神話に代表されるバックグラウンドが創作の世界にも深みとコモンセンスを与える。つまり北欧メタルはこの環境だからこそ生まれるべくして生まれたムーヴメントであり、まさに「北風がヴァイキングを作った」(※2)のである。

今作の主人公、フィンランドの田舎村で友人たちと細々デスメタルバンドをやっている青年トゥロもまた、そんなヴァイキング…のポテンシャルを秘めた一人だ。
バンド歴こそ10年以上だけれど、自信がなくて一度も人前で演奏したことがない(ついでにいうとバンド名もない)彼らの前に、隣国ノルウェーで行われるフェスに出演できるチャンスが舞い降りた!ところが、小さな村の中でいつしか「出演するかも」は「出演決定」に話が膨らみ、追い詰められるトゥロ。果たしてフェスは、バンドは、どうなっちゃうの??

そんなわけで、大枠としては音楽青春コメディの王道ともいえる内容。小心者のフロントマン・トゥロを中心に据えた挫折と成長、ちょっとしたロマンスが描かれる。「一生便秘に悩むより、漏らしたほうがマシだ」。
そこに、激しく厳ついメタルとナイーヴで負け組(村の中では所謂ナード的な扱い)な青年たちのギャップ、個性豊かで愛おしさの塊のごときバンドメンバーたち、ギャグ一発一発の奇天烈さとオフビート感覚…といったフレッシュな要素が乗っかって、今作をミラクルな一本に押し上げている。要するに大好き。

また、端々からフィンランドという国ならではのカルチャーや価値観が垣間見えるのも特色といえる。たとえば自己主張が控えめといわれる国民性は主人公トゥロの性格にそのまま当て嵌まるようだし、日本からすれば似て思えるノルウェーに感じているギャップと憧れに似た感情(GDPは資源産出国であるノルウェーの方が高い)。
他にも、劇中でキーマンとなるラップランド人=サーミ人は、先住民族ながらマイノリティとしての立場であり、トゥロたちとアウトサイダー同士の絆を結んだりする。あとはトナカイネタ(主に不謹慎なやつ)の数々とか。

そして、そんな「土着の」感覚こそがトゥロたちのバンドに活路を開く、というのもアツいポイント。
オリジナル曲が作れず行き詰っていたところに天啓となったのは、ギタリストの実家兼職場にあったとあるマシンの音や、色々とうまくいかない日常の中で生まれたマイナスの感情に基づく歌詞だった。借り物ではない、実体験と接地した知識や技術こそが創作に説得力を与えるのだ、ということがわかる。ある意味で『スラムドッグ・ミリオネア』的とでもいおうか。

これはまさしく、上述したような北欧メタルが発展してきたストーリーとも重ねることができる。映画の終盤、トゥロたちはガチで「海を渡る」ことになるのだけれど、つまり彼らはやはりヴァイキングそのもの、ベーシストのパシが詞を引用していたように『Children of the Sea(海の迷い子)』(Black Sabbath)だったのだ。

未来は、崖の先の海にしかなかった。冒頭に書いたように、最後に残る苦難の道を選ぶことこそがヘヴィメタルなのであれば、トゥロたちは、そしてそんな生き様をキュート&ブラックな笑いと共に描ききったこの映画は、《PURE FUCKIING METAL》と呼ぶほかないだろう。

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※1:劇中の音楽を担当したのも、同郷の元祖クサメタルバンド・ストラトヴァリウスのベーシストだ。

※2:『ジョジョ』第一部でツェペリさんが引用していた、真偽不明でお馴染みの諺。