■老成と苦渋
本作では、チャップリンの人間としての老成と、当時の彼が陥っていた苦境の両方を見ることができる。先に後者に関して触れると、自分の信条が不当なアカ呼ばわりで迎えられていたこと、自分が拠って立つところのスラップスティック喜劇をこれ以上延命できないという現実、自分自身の老いと衰えなどが本作に投影され、何ともやるせない気持ちにさせられる。
前者に関しては、最初のほうのチャップリンのセリフが映画脚本として優れているとかではなく、単純に「良いこと言うな~」と思う。まぁ、ここで良いこと言わないとヒロインが立ち直る展開に説得力がなくなるから、脚本としても優れているということでいいのか。それでいて主人公とヒロインの立場が逆転すると、セリフもたちまち逆転してしまうのだが、これはこれで説得力がある。つまり、チャップリン映画が常にそうであったように、本作のこの展開も本質的に人間の弱さを物語るものである。最後まで観れば、「ここまで自分を突き放せるか」という驚きを味わう。
もっとも、ヒロインを見るに女性の好みは変わらないようだし、おそらく60過ぎのチャップリンが若い女性にベタ惚れされる展開は「ジジイ好い加減にしろよ」という突っ込みもあったかもしれない。
■絶望的なすれ違い
そういうこともあって、この映画は感傷的と言われることが多いようである。しかし、その言葉で片付けるには少々暗すぎる。チャップリンの映画で以前から見られる側面だが、最後期の『殺人狂時代』や本作では男女のすれ違いが決定的で、ほとんど絶望的なものとして描かれている。男女ではなく老若の違いと言うべきだろう。この2作では、チャップリンが偶然若い女性を助け、のちに恩返しをされるという展開が共通している。しかし同時に、後半では零落した老人と上昇した女性との間に横たわる、考え方の隔絶が浮き彫りにされる。
特に『ライムライト』では、女性は熱い好意をチャップリンに寄せ、彼の幸福のために何でもする覚悟だが、それゆえにチャップリンの絶望が我々の胸に迫るものとなっている。つまり、「カルヴェロ」の名を利用してでもチャップリンに再び成功を味わってほしいヒロインと、成功するよりも実力で勝負したいだけのチャップリンでは、考え方というか生き方が違っている。加えて、ヒロインはチャップリンの思いを理解せず、またチャップリンの願いは実現しえないことによって、映画のトーンは一層重苦しいものとなる。
■チャップリンとキートン
本作ではバスター・キートンとチャップリンが舞台で共演するわけだが、キートンの老いた姿はチャップリン以上に痛ましい。ここでチャップリンとキートンは、自分自身の弱々しい姿をさらけ出すことで、ドタバタ喜劇を代表して大衆に別れを告げている。
ところで、よくチャップリンは非映画的で、キートンは映画的という対比がされる。これは実際にそうだろう。キートンの映画はカメラワークやモンタージュによって笑いの効果がかなり強められている。それに対し、チャップリンの映画は大した演出を行っておらず、本質的に舞台の延長である。映画特有の技法が活用されるのはもっぱら感情的な目的であり、すなわちクロースアップである。この映画でも、映画らしい演出はほとんど俳優のクロースアップしかない。実のところチャップリンにはそれで十分だったのだろう。彼はクロースアップを節約することで、ここぞというシーンで感情の強度を見事に高めている。