1968年アラン・レネ監督作品。アラン・レネは2014年3月1日に91歳で亡くなるまで数多くの作品を生み出し、遺作の『愛して飲んで歌って(2014)』は日本では今年公開されたばかりである。今年は終戦70年という事で、レネ監督によるホロコーストについてのドキュメンタリー『夜と霧(1955)』や、原爆投下後の広島を舞台に日本人の建築家 (岡田英次)とフランス人女優(エマニュエル・リヴァ)の一日限りの情事を描いた『二十四時間の情事(1959)』(別題『ヒロシマ・モナムール』)が上映される映画館もいくつかあるようだ。
キャリアの初期では画家のドキュメンタリーや戦争の記憶についての作品を、そして1960年代には政治的な映画を撮ってきたアラン・レネが本作で手がけるのはSF(サイエンス・フィクション)である。ちょうどこの当時、ヌーヴェルヴァーグと呼ばれる50年代後半にデビューした有名な監督であるジャン=リュック・ゴダールとフランソワ・トリュフォーもそれぞれ『アルファヴィル(1965)』と『華氏451(1967)』というSF作品を撮っている。ゴダールとトリュフォーのこの2本は当時日本で公開され、しかもデジタル・リマスター版が2014年末から2015年にかけて全国で再上映されている。それに対してレネの『ジュ・テーム、ジュ・テーム』は日本では劇場公開されていない。だからといって本作の質がゴダールやトリュフォーのSF作品に劣るかと言ったら、決してそうではない。ゴダールはSFにハードボイルドと文学的引用を持ち込み、トリュフォーはSFに読書や文学への愛を持ち込んだ。SFであってもそれぞれの個性が感じられる独特の作品となっている。そしてレネもそれまでの作品に通底する、過去や記憶や忘却をSFに持ち込んで、彼にしか撮れないSF作品を作り上げた。そんな『ジュ・テーム、ジュ・テーム』がフランスでは興行的に失敗に終わり、日本では公開すらされなかったのは、ゴダールやトリュフォーと違い、製作されたのが1968年というあまりに特別な年であったためだろう。1968年は五月革命の年であり、この年の5月にあったカンヌ映画祭は会期中に中止に追い込まれた。「ヴェトナムで多くの人が死に、労働者や学生が運動しているのに映画など上映している場合ではない」と映画祭の粉砕の中心人物だったのがゴダールとトリュフォーだ。そしてこの時のカンヌの幻のコンペティション部門に出品していたのがレネの『ジュ・テーム、ジュ・テーム』である。今では少々呪われた映画という感のある本作だけれど、この映画祭が無事行われていて受賞でもしていれば、全く違った未来になっていたことだろう。
映画のストーリー自体はシンプルで、自殺未遂をして病院にいる男クロード(クロード・リッシュ)の回復を待って、タイムトラベルの装置を開発している研究チームが人間での実験の被験者として彼を過去に送るというもの。1年前に戻って1分後には帰ってくると聞かされ、マウスでの実験も成功したと誇らしげだけれど、暦も無ければ言葉も発さないネズミが本当に1年前に戻ったか確認する術は無く、本当かどうかは疑わしい。時間移動を行う装置も、ジャガイモに数本の爪楊枝を突き刺したものを大きくしたような歪なフォルムで、近未来のタイムマシンとは言い難い代物だ。それでも実験を引き受けたクロードはネズミと一緒に過去への旅に出るのだが、やはりマシンが故障したようで色々な時間へ行ったり、同じ時間を繰り返したりする。多くの時間移動の映画では、移動した先でも移動する前の記憶があり、その記憶をもとに目的に向かって何かアクションを起こす。しかし本作の場合、移動の自覚がなく、本人が過去を新たに体験しているような時間移動なのだ。
あまりにも短いタイミングでパッパッと時間が切り替わるので、本当に移動していると言うより、過去の記憶をバーチャルリアリティのような形で再体験しているような印象を受ける。半魚人のお面を被った男や、電話ボックスが水で溢れて溺れる男など、現実では考えられない場面が挿入されるので、記憶が何かの影響で加工されて現れたのだろう。
この映画では海に潜っていたクロードが水から出る瞬間の、ゴーグルを持ち上げ、手で顔を拭いて髪をかき上げるという一連の身振りのシーンは、何度も何度も繰り返して出てくる。無意味そうだけれど、同じ映像を使っているのではなく、この身振りが少しずつ違っているので、過去と記憶の微妙なズレというレネ的主題を読み取ることもできるだろう。
カトリーヌ(オルガ・ジョルジュ・ピコ)という恋人とのデートや、倦怠、彼女の死やその後という流れは分かっていても、これだけ時制がバラバラで、一つ一つのシーンが短く、過去と過去が衝突するような編集では、すべてを把握するのは困難だろう。レネ監督の代表作『去年マリエンバートで(1961)』の話法もSFに持ち込んだと言える作品である。
大きな失敗などをして過去をやり直したいと考えるのは、人間だれしもあることだけど、やり直したところでせいぜい変えられるのは、ゴーグルを持ち上げる手が両手か片手かといった程度の事で、結局は「今」しかない。自死などという概念の無いネズミがその「今」を必死に生きるべく、実験用の球体の上方にある空気穴から鼻と口を突き出し懸命に呼吸するラストカットは強烈だ。