青乃雲

セブンの青乃雲のレビュー・感想・評価

セブン(1995年製作の映画)
4.5
少年時代から思春期、青年期、そして現在の中年期に至るまで、何かに耐えているような人がずっと好きだった。なぜだろうと振り返ったときに考えられるのが、そうした人には、ある種の美しさが宿るからだろうと思う。

学校や家庭や社会で、輝いたり/輝けなかったり、成功したり/挫折したり。けれど、そうした結果とは別の場所で、自分自身の宿命と向き合っている。そうしたたたずまいには、それ自身に美しさが宿っている。

ごく一部を除いたデヴィッド・フィンチャーの作品には、静けさのうちで宿命に耐えるような美しさが、必ず描き出されている。またそれは、背反性によって生じたエアポケットのような場面として現れる。

そして聖書というよりも、カトリック文化によって形成された「7つの大罪」をミステリー装置とした、この『セブン』にもまた、フィンチャー作品全体を貫く静謐な美しさが色濃く描かれているように感じる。



物語の構造として見た場合には、『セブン』はサマセット(モーガン・フリーマン)、ミルズ(ブラッド・ピット)、犯人(ジョン・ドウ:ケヴィン・スペイシー)による、恋愛のような三角関係を描いた作品のようにも見える。

それまでは、サマセットとミルズの刑事2人が、1人の犯人と向き合う構図だったのに対し、ラストシーンによって、ミルズ1人が、サマセットと犯人の2人に向き合う構図へと転換することになる。これは1人の汚れなき処女(ミルズ)を巡って、2人の男(サマセットと犯人)が奪い合う構図のようにもなっている。

犯人が欲しかったのも、サマセットが守ろうとしたのも、ミルズの汚れのなさだった。

汚れた世界に対していつしか諦めのうちに生きながら、どこか犯人に共感さえ示すサマセットは、犯人と共犯関係のようにも感じられ、その手から処女を奪いとれるような力を持たない男だった。そのため、ミルズが引き金に手をかけることは、サマセットのもとを離れ、犯人に処女性を捧げることを意味する。彼は引き金に手をかける。サマセットの制止は、自分のもとから去っていく女を引き止める声のように力を持たない。

そして犯人は勝利する。

その瞬間、ミルズは刑事事件という社会性の枠組みから放り出され、たった1人で魂の法廷に立たされることになる。三角関係から抜け出し、エアポケットのような場所に彼は立つ。そこにある孤独と静謐さ。

このことを前に、7つの大罪の結果にどれほどの意味があるのだろう?

1)暴食:肥満の男(死亡)
2)強欲:弁護士(死亡)
3)怠惰:拘束された男(生存)
4)肉欲:娼婦(死亡)
5)高慢:モデル(死亡)
6)嫉妬:犯人自身(死亡)
7)憤怒:ミルズ(生存)

この結果を見ると、拘束された男とミルズは生存しているため、残り2人の犠牲者は誰かという疑問が生じるらしい。またその答えは、妻トレイシーとお腹の子供という見解もある。

けれど、犯人にとっても作品にとっても、問題なのは、罪(つみ)のほうであり、罰(ばつ)のほうではない。その証拠に、彼女と子供の罪については、誰も答えることができない。監督をはじめとする製作者側が、どのような意図で描いたかを僕は知らないものの、作品それ自身が物語るなかでは、妻トレイシーとその胎児は、本質的に7つの大罪との関係がない。

ジョン・ドウという悪魔が、汚れなきミルズを7番目の罪に陥れるためには、彼から一切の希望を奪う必要があった。悪魔が狙ったのは絶望を打ち消すための怒りだった。問題なのは死者の数ではなく、汚れなき人間を魂の法廷へと1人立たせることにこそあった。

そして、映画の終わりのサマセットの言葉を、僕はこうした文脈のなかでとらえている。「ヘミングウェイが書いていた。『この世は素晴らしい、戦う価値がある』と。後半の部分は賛成だね。」

この世は素晴らしくはないが、戦う価値はある。その戦いには負けてしまうかもしれない。しかし1人の人間が、その孤独のうちに耐えた美しさだけは残る。ミルズが引き金に手をかけたとき、確かに悪魔は勝利した。けれど、少なくとも彼は魂の原野に立った。

僕たちは、その孤独に宿る美しさを見届けた。
青乃雲

青乃雲