■ビルドゥングス・ロマンのパロディ
『教養主義の没落』という新書があるが、こうした事態は先進国共通だったようだ。本作のストーリーは、主人公の名前からも明白なように、ドイツのビルドゥングスロマンの伝統を受け継ぎながら、ポストモダン流にそれを断ち切ってもいる。原題のfalsche Bewegungは英語でfalse moveである。誤った移動とはもちろん本作の主人公の旅路そのものであり、経験や教養を通じた人間としての成熟という物語が今日成り立たないことを示している。
そもそも作家志望の子供部屋おじさんを母親が旅に出す冒頭の時点で露悪に近いものがあり、その後の無軌道な展開をみても同様である。豪邸に入ってからは『魔の山』風味も強い。年齢も性格もビルドゥングスロマンにはやや厳しい主人公が選ばれている。
ただしそれでも強調すべきは、教養主義の没落なる事態を語ることにも教養が必要だってことだ。本作の脚本が教養のない人間に書けるだろうか。また教養は、本作のような映画や古典を楽しむにも必要だろう。娯楽の選択肢や楽しみ方を増やすのに教養は役に立つ。(逆に言うとそれくらいしかないのかもしれない)
■映像化による味つけ
ヴェンダースは映像化によって、原作のパロディ的性格をいっそう強めている。主人公の旅に加わる互いに見ず知らずの人達、いきなり始まる各人の身の上話、まるで愛想のない主人公……こうして映像に起こされることで、この種の遍歴物がまるで現実的でないことを暴き立てている。
それはセリフにも言える。本作のセリフは、教養小説にあるような談義だったり、自分語りだったり、昨日見た夢だっり(精神分析のパロディ?)、詩の読み上げだったり、日記のナレーションだったりする。これらは全て日常会話と程遠い、地に足の着かない空疎なものである。それらは、映画のなかで実際に話されることで、いっそう宙に浮いたものとなっている。
■ナターシャ・キンスキー
主人公の応答の乏しさが、本作のコミュニケーションを一層貧しいものにする。コミュニケーションの不毛さという観点からみて、本作において特別な位置にあるのはもちろんミニョンだ。全く何も話さない彼女との間にだけ、主人公はわずかながらも関係性を築きかける。
彼女を演じたナターシャ・キンスキーは14歳だが、性的な存在として描かれている。今日じゃ問題ありなシーンは言うまでもないが、この映画全体からキンスキーの性的アピールを感じたのは、単なる私の投影でないことを祈りたい。彼女だけ赤いニットでやたら目立つし、やっぱ顔面力がね。
■メディア論
こうしたことは、ヴェンダースが映画と文学のギャップに意識的であることも意味している。各メディアに関する考察は彼の映画において繰り返し現れるテーマだ。例えば小さなブラウン管テレビで流されるストローブ=ユイレは、明らかにこのメディアに対する批判である(『都会のアリス』のときほど直接的ではないにせよ)。
余談ながらドイツにはメディア論という分野で重要な研究者が多い。マクルーハンとかキトラーとか。ヴェンダースにま影響があってもおかしくない。
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こうした戯言はさておき、登場人物たちが何のまとまりもなく散歩するシーンには、映画それ自体としての魅力が溢れており、ヴェンダースが単に頭でっかちな監督でないことを教えてくれる。