このレビューはネタバレを含みます
冒頭とラストに同じ絵がでてくる。男が鏡の方を向いている。しかし、鏡に映っているのは男の正面ではなく後ろ姿だ。ということは、それは鏡ではなく、別の誰かがそこにいるということか。しかし、これが合わせ鏡でその男の背後にある像が正面の鏡に映ったものだとするとどうだろう。でも、そうなら最初に正面の鏡に映った像はどこに行ったんだ。思考を迷宮に誘い込むような絵だ。
自分は一体何者なのか。社会的には戸籍がそれを証明してくれる。また、そこで示される名前は、自分は誰の子で誰の孫で、つまり、自分はどこから来たのかを示し、自分に続く世代にそれをつないでいくものだ。小林誠は自分が何者であるかを消し去ろうとした。それは自分がやって来た道程を呪い、それが自分を苦しめたから。城戸章良は帰化した在日朝鮮人であり、彼はそのことを隠さず逃げないが、それは絶対に抜けない棘のように彼に苦痛を与えている。悠人は三度変ろうとする姓に自分の由来がぐらつき怪しくなることに戸惑っている。
里枝は病気で亡くなった我が子に良かれと思いながらも苦しみを与えてしまっていたことを激しく悔いている。だが、誠は里枝にその子にも母の愛が伝わっていたはずと思ったに違いない。なぜなら、彼は、里枝と彼に愛情を伝えなかった父との比較をしただろうから。そして、彼は自分が得られなかったものを里枝とその家族に与え、得ようとしたのではないか。彼はそこで愛し愛される人と場所を得て、自分が自分でいられる時間を過ごした。このことは悠人がそう話し、確かに誠が自分の父だったと確信している。
誠が別人の名前を騙っていたことに里枝も強く戸惑った。一体彼は誰だったのか。しかし、ともに日々を家族として暮らした彼こそが彼であり、それ以外の属性や形容詞は必要がないことに気づく。人が何者なのかは誰かや何かに証明してもらうことではなく、そこにいる、そこにいたという事実こそ動かしがたいもので、それだけで良い。そう、里枝は言っている。
それでもラストでの章良の彷徨いともいえる姿は何かに証明してもらわなければ崩れてしまう人の弱さを物語っている。